世界中で読まれた書籍として有名な「アンネの日記」をご存知ですか?その「アンネの日記」の舞台になった場所が、アウシュヴィッツです。
本のなかには、強制収容所での日々が赤裸々に描かれています。
あまりにも残酷な現実にも関わらず、必死に希望を見いだそうとしたアンネを想像すると、言葉にならない気持ちが押し寄せますよね。
しかし、そんな強制収容所の中で最も有名なアウシュヴィッツ強制収容所も、今では観光地の1つとなっているんです。
そこで今回は、アウシュビッツへの行き方や歴史についてわかりやすくお伝えしますね。
アウシュビッツとは?
アウシュビッツは、都市の地名のことを指します。
ポーランド南部の都市に「オシフィエンチム」という場所がありますが、この街をドイツ語で「アウシュビッツ」と呼びます。
「アウシュビッツ = 強制収容所」というイメージが強いので、建物の名称だと思っている人が多いのですが、きちんと調べてみると実際には違うんですね。
ちなみに、オシフィエンチムはポーランド語になります。
アウシュビッツとはどこにあるの?
アウシュビッツがあるのは「ポーランド」です。
ポーランドには首都であるワルシャワと、南部には美しい古都として知られているクラクフがあります。
どちらからでもアウシュビッツには行くことができますが、ワルシャワからだとかなりの距離があるので、クラクフ経由で訪れる人が多いですね。
クラクフから約70キロ西方に行くと、アウシュビッツに辿り着きます。
アウシュビッツへの行き方
日本からアウシュビッツに行く場合は、まず成田から飛行機でポーランドにあるワルシャワ・ショパン空港に行きます。
LOTポーランド航空から直行便が出ているので、飛行時間はおよそ11時間30分です。
ワルシャワ・ショパン空港に到着した後は、列車やバスを利用してアウシュビッツまで行くことができますが、片道4時間以上がかかります。
そのため、日帰りで訪れようと考えると、往復で8時間以上かかってしまうので、体力的には厳しいかもしれません。
そこで、ワルシャワ・ショパン空港から直接行くのではなく、クラクフ経由でアウシュビッツに行くのが、1番おすすめですよ。
クラクフからアウシュヴィッツまでは、バスもしくは列車となりますが、最短で到着するのがバスを使った移動です。
大幅に時間が変わるわけではありませんが、バスを使った方が30分ほど早くアウシュビッツに着きます。
クラクフにあるバスターミナルから、アウシュビッツにたどり着くまではバだいたい1時間程度で到着しますよ。
アウシュヴィッツの地が選ばれた理由
強制収容所を作るにあたり、アウシュビッツが選ばれた理由には、次の2つが想定されています。
- 田舎で広大の土地だった
- 交通の便が良かった
まず1つ目は、アウシュビッツが田舎で土地がとても広かったことです。
当時の権力者であるヒトラーは、ユダヤ人を根絶させるために、ドイツ国内の隔離施設にユダヤ人を迫害(はくがい)していきます。
しかし、ユダヤ人の数があまりに多く、隔離施設はすぐにいっぱいになってしまうんですね。
そんな時に、第二次世界大戦中ナチス軍はポーランドに攻め込んで、アウシュビッツの地を手に入れます。
アウシュビッツには、ポーランド兵士用の宿泊設備も整っていたことから、強制収容所を作るには絶好の場所だったわけです。
そして、2つ目は交通の便がとても良かったことです。
実際に、ヒトラーの側近として知られているルドルフ・ヘスは、アウシュビッツの地を選んだ理由として、以下のように話していました。
「周囲から隔離できるのはもちろんだが、遮断することも可能である。」
この最も大きな2つの理由により、アウシュビッツの地が選ばれたのではないかと思います。
アウシュビッツ強制収容所ができた理由ってなに?
想像するだけでもおぞましいアウシュビッツ強制収容所は、なぜ誕生してしまったのでしょうか。
アウシュビッツ強制収容所は、ナチス・ドイツの1番の権力者であるヒトラーの独裁政権によって生み出されたものです。
第一次世界大戦が敗戦した後、ドイツの経済状況は非常に苦しく、周囲の国々から巨額の賠償金が請求されていました。
ドイツ内で混乱が引き起こされる中、その経済状況を回復させたのがヒトラー政権です。
経済状況が回復することによって、ヒトラーは国民たちから高い支持を得ています。
この指示を利用する形で独裁政権はどんどん過激となり、ついに第二次世界大戦を引き起こしてしまいます。
偏った考え方を持つヒトラー政権では、ユダヤ人を悪の象徴とし、ユダヤ人への迫害が激化してしまうんです。
そこで、ユダヤ人を絶滅に追い込むために作られたのが、アウシュビッツ強制収容所を始めとする多くの収容所になります。
強制収容所には誰が収容されていた?
アウシュビッツ強制収容所に収容されていたほとんどは、ユダヤ人です。
特に犯罪を犯したわけではなく、ただ一般の生活を送っていた罪のないユダヤ人たちが偏見と独断により、次々と強制収容所に送られていきました。
強制収容所には、女性、老人、子供といった弱い立場のものも容赦なく送られていきます。
ちなみに、アンネの日記の作者であるアンネ・フランクは、ベルゼン強制収容所なのでアウシュビッツ強制収容所ではありません。
休養収容所と呼ばれている場所ではありましたが、実際にはその他の強制収容所とは変わらない実態でした。
伝染病が流行したことをきっかけにアンネとアンネの姉もチフスに感染し、死亡しています。
強制収容所へはどうやって連れてこられた?
アウシュビッツ強制収容所へは、列車に乗って連れていかれます。
列車といっても、私たちが想像するような優雅なものではなく、家畜を乗せるような貨物列車になります。
列車の中は人がぎゅうぎゅう詰めの状態で、食べ物はおろか飲み物さえ口にすることができません。
トイレも用意されていない状態なので、用を足すときにはバケツでおこないます。そのため、列車内の人々は、汚物の悪臭に苦しめられたそうです。
そんな状態から抜け出そうと逃走を試みるものもいましたが、武装した警察が同行していたため、あっけなく射殺されてしまいます。
また、距離が近いものに関しては、列車ではなくトラックを使用したり、歩かせたりすることもあったそうです。
アウシュビッツの歴史を教えて!
アウシュビッツ強制収容所がいつ誕生し、いったいどのように解放を迎えたのか、とても気になるところですよね。
それでは、収容所の開始から解放までの歴史についてわかりやすく記載したのでご覧ください。
アウシュビッツ第1強制収容所 開所
アウシュビッツ第一強制収容所が開所されたのは、1940年5月20日です。
オシフィエンチムの地が選ばれてから、初めて設置された最初の収容所となり、建設はポーランド軍が使用していた宿舎を活用して行われます。
強制的に連れてこられた労働者を使用することにより、収容所は短い期間で拡大し続けていきます。
この最初に作られた第一強制収容所は、収容所としての目的だけの施設ではなく、懲罰としての役割を果たすためのものでもありました。
そのため、ガス室や火葬場も存在します。
アウシュビッツ第2強制収容所(ビルケナウ)開始
1941年10月8日には、アウシュビッツの第二強制収容所となるビルケナウ強制収容所が誕生しました。
アウシュビッツ強制収容所のなかで有名なのが、このアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所です。
強制収容所の中でも、最も多くの人数を収容できるように作られました。
脱出不可能だと言われたアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所は、常に監視されている状態で、犬を連れた親衛隊が巡回しているのが特徴的です。
また、逃亡を不可能にするために、電流を流す有刺鉄線のフェンスも備えられています。1943年には大きな火葬場が4棟も作られ、ガス室や焼却炉もありました。
その後、1年半にわたりガス室を使った虐殺が行われていたことを考えてしまうと、思わず目をそむけたくなる光景です。
アウシュビッツ第3強制収容所 開所
1942年10月には、とうとうアウシュビッツ第三強制収容所がモノヴィッツに作られました。
ここでは、ブナの合成ゴムの製造が行われていて、収容されている人々は強制的に労働させられます。
強制労働させられていた人達は、アウシュビッツ第一強制収容所に連れて行かれ、鑑別するための番号が左腕に彫られます。
ソ連軍がアウシュビッツ強制収容所を解放
1945年1月27日にはナチス・ドイツの勢いは徐々に低下していき、収容所の噂が大きくなることによりアウシュビッツ強制収容所で行われていた実態が明るみになります。
すると、ナチス軍は崩壊していき、ソ連軍がアウシュビッツ強制収容所に生存していた人たちを次々と解放していきます。
しかしこの時に生存が確認されたのは数千人程度で、開所した当時にいた多くの人々は死亡しています。
60,000人もいたのに数千人しか助からなかったのは、理不尽な虐殺が繰り返されていたからです。
短期間で1,000,000人近いユダヤ人の命を奪ったアウシュビッツでの出来事は、ここでようやく終焉(しゅうえん)の時を迎えるのです。
アウシュビッツの日常はまるで地獄だった…
アウシュビッツでの日常は、まるで生き地獄です…。今の時代では考えられないような、おぞましい出来事が毎日のように繰り返されていました。
選別
列車に強制的に乗せられてアウシュビッツ強制収容所にたどり着くと、まず最初に行われたのが選別です。
労働力として使うことのできない身長120センチ以下の子供や女性、老人、さらに病人は右側に並ばされます。
その他のものは左側の列に並ばされますが、右側の列は長蛇の列となり、たどり着く先はガス室になります。
未来ある子供はもちろん、何も罪のない人々がここで大量に殺害されたことを考えると、胸が苦しくなりますね。
ガス室
右側の列に並んでいた人たちは、真実を聞かされることもなく、消毒するという理由で裸にさせられます。
裸になった後はガス室に押し込められ、扉が閉められる仕組みです。
この時に使用されていたガスは、チクロンBと呼ばれるもので、毒性が非常に高いものになります。
ガス室に閉じ込められてから命が絶たれるまでの時間はわずか10分程度です。
多くの人たちが悲鳴を上げながら、あっけなく命が奪われてしまいます。
ガス室を閉めてから30分程度の時間が経過すると扉が開けられて、金目のもの全て取り除かれた状態で、焼却炉にて燃やされたそうです。
強制労働
左側に並んだものは、強制労働が待っています。
囚人服は与えられるものの、氷点下の中で靴も履けずに体力の限界を超える強制労働が強いられるので、結果的にどちらを選んだとしても地獄になってしまうんです。
強制労働させられるものは、まるで家畜のように扱われ、人権は無視された状態になります。
あまりに過酷な肉体労働に耐え切ることができず、短期間の間でほとんどの人が死亡してしまいました。
また、作業に失敗したものには重い懲罰がまっており、監視をしている人間から激しい暴行が行われていたようです。
最悪の環境下での生活
収容所に収監されている囚人たちの生活は最悪の環境下となり、特に衛生状態はひどいものでした。
トイレも自由に行くことができず、排泄物はそこら中に落ちている状態なので、伝染病も当たり前の生活です。
さらにアウシュビッツの夏は猛暑、冬は氷点下となるので、囚人服1枚で生活していた者たちにとってはまさに地獄となります。
冬には手足が凍傷してしまい、腐敗していく人も少なくなかったようです。
また、食事は一応与えられていましたが、とても人の食事とは思えないほど悲惨なものとなります。
- 朝:濁った飲み物(コーヒーと呼ばれている)
- 昼:具なしスープ
- 夜:パン1個(たまにバター)
このような食事では当然栄養不足となるので、空腹の中で餓死していくものもたくさんいます。
この生活に耐え切ることができず、自ら自殺目的で、高圧電流が流れる有刺鉄線に飛び込むものもいたそうですよ。
拷問・処刑
収容所の囚人たちを監視していたのは、ドイツで服役していた残虐性の高い元囚人や、ヒトラー政権に強く同意しているナチス・ドイツに協力的な者たちばかりです。
何も悪いことをしていない囚人たちを日常的に暴行したり、処刑したりしながら、その生活を楽しんでいました。
また、独房に入れられた囚人には恐ろしい地獄が待っています。
収容所の中で強制労働を強いられるだけでも地獄の日々なのに、独房に入ってしまうとさらに徹底的に暴行が行われ、わずかな食事すらとることが許されません。
体力的に衰弱していきながら、飢えによって命を落とすことになるのです。
人体実験
アウシュビッツ強制収容所の歴史で、特に強い印象を世間に残しているのが人体実験となります。
強制的に病原体を体内に注入されたり、わけのわからない薬物が投与されたりする日々が繰り返されました。
また、気圧や温度の変化にどこまで体が耐えられるのかといった恐ろしい実験も繰り返されます。
さらに想像するだけでも身震いしてしまうのが、麻酔を一切使うことなく臓器が移植されるような人体実験が繰り返されていたことです。
特に双子に関しては人体実験の絶好の標的となり、比較実験が行われることも少なくありませんでした。
収容所の風景はどんな?
アウシュビッツ強制収容所の一部は、観光ツアーも行われており、世界中の人が観光目的で訪れています。
実際に強制収容所を訪れると、当時を彷仏(ほうふつ)させるような風景がまだ数多く残されていました。
入り口ゲート(正門)
まず、正門の入り口ゲートですが、アウシュビッツ強制収容所のシンボル的な存在です。このゲートには、画像で見てもわかるように文字が刻まれています。
この文字を日本語に訳すと、「働けば自由になる」といった意味合いですが、実際にはアウシュビッツ強制収容所に自由はありませんでしたね。
このゲートに刻まれている文字をよく確認してみると、アルファベットのBが逆さまになっていることで有名です。
なぜ、このように逆さまにしたのかはわかりませんが、当時では流行しているスタイルであったのかもしれません。
なかには、囚人の抵抗によるという説がありますが、厳しい状況下の中で、このような事ができなかったのではないかと憶測されます。
はりめぐらされた有刺鉄線と監視塔
アウシュビッツの収容所内に入ると、はりめぐらされた有刺鉄線と監視塔が印象的です。
今でこそ重苦しい雰囲気はなく、のどかな風景が広がっていますが、当時の風景を想像すると恐ろしい光景が浮かびます。
逃げることのできない環境下におかれ、強制労働されていたことを考えると本当に悲しくなる光景ですね。
死の壁
アウシュビッツ強制収容所の中で行われていたのは、ガス室での虐殺だけではありません。
その出来事を象徴しているかのように、今でもそびえ立っているのが「死の壁」と呼ばれているこちらの画像になります。
実際にこの死の壁では射殺が行われており、多くのユダヤ人たちが見せしめのために処刑されました。
また、死の壁が存在している右側には、囚人たちが最も恐れていた「死のブロック」である第11ブロックが存在してます。
現在では、この死の壁の前には多くの花が手向けられ、射殺された方がたを供養しています。
居住棟
薄暗い狭い部屋の中には、木で作られた簡易的なベッドがあります。この部屋こそ、アウシュビッツに収容されていた方々の居住区になります。
しかし実際には、ほとんど眠ることも許されないまま強制労働が繰り返されていたので、ここではしっかりと休息を取ることもできなかったのではないでしょうか。
さらに、この狭いベッドスペースの中は1人で寝る事は許されず、2人もしくは3人で寝かされていたようです。
薄暗さのせいか、今でも当時を彷仏させるような雰囲気が漂っています。
ガス室
理由もなく実際に大量虐殺が行われていたのが、こちらのガス室です。ここで、多くの人の命が簡単に奪われてきた場所でもあります。
なんの罪もない方が無残に命を落とす結果になったことを想像すると、やり切れない気持ちになってしまいますね。
今でも、ガス室に送り込まれていた小さな子供たちの悲鳴が聞こえてきそうです。
焼却炉
ガス室から運ばれてきた遺体は、こちらの焼却炉で燃やされていました。
一人一人が弔われることもなく、まるで可燃ごみを捨てるような感覚で燃やされていたのかと思うと、複雑な気持ちになってしまいます…。
ガス室に遺体を運ぶまでには運搬役が必要となりますが、運搬役に選ばれた人も後に口封じとして処分されていたそうです。
集団絞首台
こちらの集団絞首台は、一度に10人以上が吊るされ殺されていた場所です。
ぱっとみると、ここで何が行われていたのかよくわからないような光景に見えてしまいますが、当時の状態を想像してみると、こちらもまた胸が締め付けられる思いになりますね。
アウシュビッツの悲惨な歴史の光景が目に浮かぶ場所の1つと言えます。
まとめ
今回は、アウシュビッツ強制収容所への行き方と、当時の歴史についてご紹介しましたが、いかがでしたか?
豊かな現代を生きている私たちにとって、当時のアウシュビッツにいた人達の心境は測り知れないものがあります。
アウシュビッツでの出来事については学校でも勉強として教わりますが、写真だけでなく自分の目でしっかりと確認すると、また今までと違った感情を得ることができるかもしれませんね。
ポーランドを訪れる機会があったら、ぜひ観光してみてください。
海外旅行に行く方で、海外旅行保険に加入していない人は多いです。
しかし、これって正直やばいです。こっちがひやひやしてしまうくらい、危ないです!
たとえば、アメリカで手術すると盲腸で300万円とかの費用になります。海外旅行保険加入していないと、これが自腹です。
ヤバいですよね。破産してしまいます。
そこで、海外旅行保険に加入しましょう。とはいっても、海外旅行保険付きのクレジットカードを発行すればオッケーです!
おすすめのカードは、エポスカードです。
うれしいことに、自動付帯なのでエポスカードを持っているだけで、海外保険が適用されます!
年会費無料で海外旅行保険に加入できるので、持っていなければ損ですよね。